誰かが今ここで語ってくれているということ ヤネック・ツルコフスキ『マルガレーテ』、akakilike『はじめまして、こんにちは、今私は誰ですか?』、Ping Chong『生きづらさを抱える人たちの物語』
/上念省三

 
 

飛ぶ魂ー「大竹野正典 没後10年記念公演『山の声』」を観てー

​                          岡田祥子

『山の声』撮影:藍田マリン

■『山の声』

作・演出:大竹野正典

出演:戒屋海老、村尾オサム(遊劇体)

2019年5月25日・26日

アイホール

■改訂版『埒もなく汚れなく』

作・演出:瀬戸山美咲(ミナモザ)

出演:西尾友樹(劇団チョコレートケーキ)、占部房子、柿丸美智恵、緒方晋(The Stone Age)、福本伸一(ラッパ屋)、橋爪未萠里(劇団赤鬼)、照井健仁

2019年5月24~27日

アイホール

『埒もなく汚れなく』

撮影:青木司

 2019年5月、「大竹野正典 没後10年記念公演第3弾」と銘打ち、瀬戸山美咲 作・演出『埒もなく汚れなく』と大竹野正典 作・演出『山の声―ある登山者の追想―』が、東京と関西で上演された。東京は『埒もなく汚れなく』がシアター711で『山の声』がGEKI地下リバティで、関西は両作品とも伊丹アイホールで上演された。プロデューサー綿貫凜のオフィスコットーネプロデュースによるものである。

 『埒もなく汚れなく』は、瀬戸山美咲が、2009年に急逝した劇作家で演出家の大竹野正典の人生を、彼の家族や友人など関係者に取材を重ね書きあげたドキュメンタリー人物伝である。実在の人物が登場し、大竹野の高校時代から49歳で亡くなるまでの芝居にかけた人生の軌跡が描かれている。初演は2016年でその年の読売演劇大賞上半期作品賞・演出家賞・男優賞にノミネートされた力作であるが、今回の公演においては『山の声』のいわゆる画賛に近い立ち位置を取っている。「大竹野正典 没後10年記念公演」という企画のメインはあくまでも『山の声』で、2作合わせて鑑賞すると『埒もなく汚れなく』が下支えとなって、大竹野正典像がより鮮明になり、理解度が増す仕掛けとなっている。一風変わった趣の題名『埒もなく汚れなく』も、大竹野が2005年に書いた「芝居は埒の無い発明である」という内容の小文「埒の無いこと」に依拠している。磊落な大竹野正典を熱演した西尾友樹をはじめ、どの役者も好演であったが、とりわけ妻の小寿枝を演じた占部房子の演技の熱量が印象に残った。小寿枝は劇団の現実的な運営面の苦労を引き受けつつ芝居馬鹿の夫と一緒に夢を追いかける。事故で突然夫の命が断ち切られたあとも夢を一心に繋いでゆこうとする。小柄で華奢な占部が体全体で感情豊かに表現する姿が迫ってきた。 

 今回の『埒もなく汚れなく』は前回公演の大幅な改訂版であったらしいが、 逆に2人芝居である『山の声』は、大竹野存命中の2008年公演時の演出のまま、キャストも戎屋海老と村尾オサムがつとめるオリジナルバージョンで実施された。初回公演から11年も経っているのに、あえて変えないところに今回の公演の意図があり意味があったと思われる。過ぎた年月がキャストの戎屋海老と村尾オサムの30代と20代の役柄に多少の違和を感じさせはしたが、両人ともその無理を補って余りある演技力で、かつての大竹野の眼鏡通りはまり役を渋く熱く演じきった。後先になってしまったが、『山の声』は大正時代から昭和初期にかけて日本登山界のパイオニアとして活躍した著名な登山家加藤文太郎の人生を描いたものである。加藤は1936年(昭和11年)1月、槍ヶ岳で猛吹雪に遭い、パートナーの吉田富久とともに30歳の若さで遭難死しており、自身も登山をたしなんだ大竹野がその顛末に健筆をふるった。関西公演の上演期間中筆者はアイホールで各作品を2回ずつ観た。2作品とも装置はシンプルで、抽象的、小道具も必要最低限のものしか使用されなかった。照明もシンプルで、余剰をそぎ落として、光と闇、明と暗の対比で、生と死を浮き彫りにしていこうとしているように感じられた。

■岡田 祥子

(おかだ・さちこ)

16歳から短歌に熱中、寺山修司の短歌『田園に死す』を愛唱する高校生だった。この頃から観劇はアングラ中心で、大学で山海塾の『金柑少年』を観た日の衝撃は忘れられない。高校の国語科教員となり、退職まで演劇部の顧問として、寺山修司、チョン・ウィシン、唐十郎、等々、高校生と戯曲に向き合い、芝居作りを楽しんだ。リタイアした今、これからは、観る人、書く人になりたいと思い、現在、應典院のモニターレビュアーをつとめている。

https://www.outenin.com/series_tag/review/

【参 考】

『山の声』のモデルの加藤文太郎について

加藤文太郎は、大正時代から昭和初期にかけて日本登山界のパイオニアとして活躍した著名な登山家である。1936年(昭和11年)1月槍ヶ岳で猛吹雪に遭い、パートナーの吉田富久と共に遭難死した。30歳の若さであった。彼は前年結婚しており、生まれたばかりの娘と妻が残された。

加藤の生い立ちであるが、1905年(明治38年)兵庫県美方郡浜坂の漁村に生まれ、高等小学校を卒業した後、神戸に出て、工業学校の夜間部に通いつつ三菱内燃機製作所(三菱重工業の前身)に技師として勤務した。1923年(大正12年)頃から登山に熱中、当時の住まいの近くにあった六甲山縦走を皮切りに数々の山を踏破していった。足が速く1日で100㎞歩いたという。当時の登山は装備やガイドに金がかかることから一握りの金持ちのスポーツとされていたが、加藤は体裁に頓着せず、地下足袋を履き、ありあわせの服装で登った。「単独行の加藤」として後年名を馳せるが、実際はガイドを雇う金やパーティを組むのに適当な同様の境遇の仲間が得られず必然的に単独行となったのである。彼の生涯を描いたものに新田次郎の小説『孤高の人』がある。

 大竹野正典であるが、彼は、2009年7月海の事故で49歳の若さで命を落とす。高校時代に戯曲を書き始め、自身の劇団を作り、書き演じ演出し、一貫して芝居に関わり続けたが、晩年の2年ほどを休筆している。妻の後藤小寿枝作成の年譜によると、彼は35歳頃から自身の創作に不信感を抱き始める。40代に入り山に登り始める。彼の戯曲は、永山則夫の連続ピストル射殺魔事件であったり保険金殺人事件であったり、多く凄惨ないわゆる「事件もの」であったが、山登りはその執筆の辛さを浄化するものであったという。休筆の間も彼は山に登り続けていた。2008年12月久々に新作を書きおろし上演されたのが、登山家加藤文太郎がモデルの『山の声』であった。この後1年も経たずして彼は亡くなる。『山の声』は最後の作品となった。本作は2009年12月第16回OMS戯曲賞大賞を受賞している。『山の声』の上演パンフレットには、大竹野の妻の小寿枝が「山の声を観てください」という文章を書いている。

「 —前略— 『山の声』で大竹野は確かにこれまでとは違うフィールドに立とうとしていた。しかし、それらはすでに断ち切られた道だった。残された私は大竹野の芝居を一人でも多くの人に観て頂きたい、という思いの塊となった。この作品は、これまで以上に俯瞰し、広がった視界を呈してくれる。その大きさに胸が震える。どうか、『山の声』を通じて、大竹野に触れてもらいたい。それだけが、この道をつないでいく最後の細い道だから。」

 彼女のこの思いゆえに、大竹野がプロデュースしていた「くじら企画」は存続し、公演を続けることになった。『山の声』は2012年プロデューサー綿貫凜と出会い、その世界に魅せられた彼女のたゆまぬ活動によってこの企画へと繋がった。

 私は2011年大阪日本橋のインディペンデントシアター2ndでの追悼公演で『山の声』を観た。そのとき私は大竹野を知らず、もちろん彼が水難事故ですでに亡くなっていたことも知らなかった。新田次郎の小説『孤高の人』のモデルになった登山家加藤文太郎と友人吉田富久の遭難を扱った芝居だと認識しているだけだった。観劇の期待値としては、不運にも避けられなかったベテラン登山家2人の死の経緯を追体験しようというぐらいの気持ちだった。『山の声』を初めて観た日の驚きについては今でも何度でも語りたい。端的に言えば、最後のシーンにおいてこの戯曲の放った言葉の力について語りたい。

 芝居は吹雪のなか凍えきった1人の登山者が山小屋に転がりこんできてアルコールランプに火をつけるところから始まる。彼は雪をコッヘルですくって火にかけ、ポケットから一掴みの甘納豆を取り出し湯に入れてぜんざいを作り、暖を取ろうとする。いつのまにか彼の背後にはもう1人の登山者が現れている。入れ替わりながら2人が語る「私」の述懐と、対話で話は進んでゆく。冒頭から状況はすでに深刻であるし、結末はわかっているのだから、神妙に私は観ていた。しかし、最後のシーンに来たとき不意打ちの驚愕に襲われた。おそらく3分にも満たない登山者1のセリフの間に、言葉とともに私は日本列島の上空を飛翔してゆくという不思議な体験をしたのである。けた外れにダイナミックな規模で言葉をあやつるこの作者は一体何者なのかと、猛烈に関心が湧いた。このセリフである。長くなるが引用したい。

「この雪の沢をまっすぐ行くと千丈沢と天上沢の出会いに第三吊橋があって その橋を渡ると水俣川に沿った林道がつけられてあります その道をどこまでも歩いてゆくと やがて日本海に出ます

海上にはイカ釣りの船のランプが星のように瞬いてとても美しいです リアス式海岸の浜坂の港町は 背後を山に囲まれた扇状の小さな町で その町のちょうど真ん中辺りに俺の生まれた家があります その家を出て西に向かえば 小さな山のふもとに花子と初めて出会った宇都野神社があり その奥社に続く石段をどこまでもどこまでも登ってゆくとやがてヒマラヤにたどり着くはずです しかし今はとても疲れた 長田神社の常夜灯を右に見て 通り過ぎた所を左に曲がると格子戸のつましい家から灯りが洩れています 花子登志子 ただいま ― 悪いが少し眠らせてくれ」 

 

 これは不死身と呼ばれた登山家加藤文太郎と思われる登山者1のセリフである。登山者2は同行の吉田富久で、食料が底をついたのちの2日にわたる雪中行で体力を使いはたし先に弱る。加藤は後輩を支え、生きぬくために湯又をめざして緻密な計算をしつつ必死で歩きつづける。彼は生還しようという強い意志を持っていたが、吉田が息をひきとったあと尋常でない厳寒の吹雪のなかついに立ちつくし、幻覚にみまわれて、このセリフが始まる。

 

 そのとき私は異様な言葉の力に鷲づかみにされ、ぐんぐん空中に浮きあがっていった。猛吹雪のなか雪に半ば埋まりながら槍の天上沢を歩いているはずなのに、気づくと道は乾いた林道となり、さらに気づくと日本海の上空にいるのである。空中浮遊、いやワープしたというべきか。夜の海、眼下はるかにたくさんの灯りがキラキラと輝くイカ釣り漁船の群れが見え、故郷の浜坂の町の上空を、悠々と翼をはためかせながら魂は飛びわたる。町の真中にある生家を見つけると急降下し、懐かしい家のなかをめぐる。家を出ると、妻の花子と出会い、逢瀬を重ねた宇都野神社に向かう。その石段の小暗い闇の向こうは遠いヒマラヤに繋がっているのだ。人生の目標だったヒマラヤの存在の気配を感じながら、しかし今は、魂はささやかな所帯を結ぶ神戸の下町の長田に戻ってゆく。いつもの帰り道を通り、我が家の玄関の前に立つ。妻子の待つ暖かい家に戻ったのである。

「ただいま ― 悪いが少し眠らせてくれ」

 戎屋海老の子どものような無邪気な笑顔が何とも言えない。死ぬのではない。夕食までしばらくうたた寝をするだけなのである。また起きあがって登志子を膝に乗せ、花子が用意した心づくしの夕餉の円居に着くつもりなのである。間もなくおびただしい量の雪が降ってくる。視界と意識は白い闇に閉ざされる。

 死ぬ前の短い間に人は人生の重要なシーンを早送りのコマのように見ることがあると聞く。人生のリプレイ。懐かしいものたちへ別れを告げる最後の魂の旅。山中他界観と呼ばれ、人は死ぬと霊魂が山に行くと信じられてきた地方がある。青森県下北半島にある恐山の地元では昔から「死ねばお山へ行く」という表現をし、人々は死者の魂は恐山に帰ると信じていた。年に一度の夏の大祭ではイタコが口寄せをして死者を呼びだし、死者に逢いたい人たちは列をなして並んだ。山形県の月山や富山県の立山にも同様の信仰があるという。私はその話を知り、恐山に登ってイタコの口寄せを目のあたりにしても、自分ではその感覚を実感できずにいた。しかし、登山者1のセリフとともに空を浮遊したのはとりもなおさず私の魂と呼べるものではなかったか。死のまぎわ空を飛んで故郷の浜坂の海や町の上空を経めぐったのは、大竹野に呼びだされた加藤文太郎の魂であり、役者戎屋の体を借りて公演のたびに蘇る大竹野正典の魂ではなかったか。言葉の力は、このようにして死者や遺された者の魂を鎮めるのではないか。「死ねばお山へ行く」と人々が信じてきた通り、おそらく人は、死の直前、慈しみ慈しまれてきたものたちへ今生の最後の挨拶をするため、空高く魂の旅をするのだ。理屈でなく私のなかで納得されていくものがあった。

 

 こういう8年前の不思議な感覚の体験が忘れられず、もう一度観たいと願っていた『山の声』を、今回オリジナルバージョンで観ることがかなって私は満たされたし、前回の観劇では気づかなかった部分にも目が行った。それは大竹野のドキュメンタリー作家としての手腕である。遭難死という最悪の結末に向かっているにも関わらず、冗談あり軽口ありの飄々とした登山者1、2のかけあいに観客はしばし待ちうける悲劇の存在を忘れる時間を持つ。加藤文太郎は登山の備忘録として多くの文章を書きのこしており、その山日記はまとめられて『単独行』として死後出版されている。この文章は大竹野も『山の声』に度々引用しており、加藤の朴訥で控え目でありながらリアルな肉声を通して、私たちは加藤の登山家としての並々ならぬ行跡や、登山の楽しさ、山の魅力などさまざまなことを了解する。素人ながらいっぱしの山岳通になった気分になる。登山者1、2の先輩、後輩という関係性から、それぞれの家庭環境、性格までわかってきたところで、突然どんでん返しが起き、事態は一気にクライマックスから終焉を迎える。その構成の妙、手際の良さは見事としか言いようがない。セリフの引用で追ってゆきたい。

 

 「あの夜 北アルプスの稜線を初めて一人で歩いた素晴らしい夜 こんなものに出会ってしまった以上 生涯 この世界から逃れ出ることは出来んと俺は思た」

 

 有頂天に山との蜜月時代が語られる。吉田との万歳三唱の楽しい掛けあい。山登りに熱中した大竹野の実感でもあるだろう。しかし、加藤の心中に変化が訪れる。山に対する倦怠と行きづまり。

『山の声』撮影:藍田マリン

「何かが違う て思いながら 黙々と歩いた」

「あの年の夏 俺は一人で貪欲に歩いた—中略—貪り歩いた しかしそれでも達成感は得られなかった」

「宇宙の中にたった一人居るようなあの感覚 満たされた孤独 途方もない寂寥 俺の求める山」

「—前略—心慰められはするものの 何かが欠けとった」

「俺は山に飽きたんか—気持ちがスレていきよる 何を見ても何処かで見たような感じがしよる 只 山さえ歩いていれば それで満足やったはずやのに 踏んだ山の頂きと走行距離はどんどん延びてゆくのに 俺と山の距離はどんどん離れてゆきよる」

「山は俺の虚ろな声を返すばかりや 俺は山に何を求めてるんやろ」

 

 加藤の苦悩に大竹野の苦悩が重なり透けて見える。しかし加藤にとって事態はひょんなことから変わる。

 

「俺の中で火が点いた いつかきっとヒマラヤに登ってやると心に決めた そう思た途端 俺の中で鬱屈していた山への気持ちが 嘘のように晴れた 心が軽なった」

 

 加藤はヒマラヤ登山に山の目標を見いだし再び歩きだす。大竹野にとってのヒマラヤ登山は何だったのだろう。何を演劇の未来に見つけて、執筆と劇団活動を再開したのだろうか。

 

 大竹野は、加藤の人となりの弱い部分、足りない部分もあばきだしてゆく。描きだされる加藤は型にはまった山の英雄ではない。格好よくもなければ意志が抜群に強いわけでもない。好きな山歩きのさなかにでさえ、人間関係に悩み、劣等感に苛まれ、自分の精神的な未熟さに打ちひしがれる。

 

「俺はなんや?脚力と体力に任せてひたすら歩き登るだけの愚鈍な動物や 尾根道伝いにやたら縦走しまくるだけの能なしや 何が『日本のウィンクラー』や 俺には人から賞賛される資格なんか一つもないよ」

 

クライミング技術のない自分を卑下する。慰め励まそうとする後輩の吉田に、悩んでいるのは技術的な問題ではないと言い、本心を打ちあける。

 

「—俺と人が持ってる俺のイメージとどんどん離れていくなァ—」

 

 加藤の『単独行』からほとんどを引用されている1930年の出来事はあまりにも辛い。人恋しさと登山技術の不安から安易に同行しようとしたパーティの人たちから加藤は「ラッセル泥棒」と非難される。「グウの音も出」ず、追われるように小屋を出た加藤であったが、追いだされたがゆえにそのパーティが全滅することになった雪崩に遭わず生きのこる。そして、言う。

 

「—俺一人だけが生き残ってしもた あの人等に剱沢小屋を追い出されたおかげで俺一人が—人として出来損ないの俺一人がや 俺はもう一生 あの人等に謝ることも出来ん」

 

そんな加藤を吉田はこんなふうに語る。

 

「俺がもしそんな目にあってたら 俺やったら山やめたかも知れん」

「先輩はやめんかったな—それどころかもっと厳しい山行をどんどんするようになったな」

「あの遭難事故があってからの先輩は 云うたら—」

「バラモンの苦行僧のように俺には見えたよ」

 

 吉田には意志強く「バラモンの苦行僧のように」見えた加藤であったが、内実は律儀な組織人でもあった。

 

「会社のことが気になって仕方がない 吹雪の小屋の中で見る夢いうたら 会社の上司に怒られたり同僚に白い目で見られたりする夢ばっかりや 無断欠勤にならんように 遅刻せんようにて 山に居ってそればっかり考えとる」

「街に居ったら吹けば飛ぶような労働者 山に居ったら人とよう歩かん山男」

「里に居れば山を想い 山に居れば里を想いか—俺はいったい何処に居りたいんや」

 

 街にも山にも安住の場所を見つけられない自分、これは大竹野の嘆きでもある。『埒もなく汚れなく』の作・演出を手がけた瀬戸山美咲はパンフレットの巻頭言「芝居すること、生きること」でこのように書いている。

 

 「『埒もなく汚れなく』を書くために、妻の小寿枝さんをはじめ大竹野さんのまわりの方のお話を聞くにつけ、大竹野戯曲の主人公たちはどこまでも大竹野さん自身なのだと知った。しかしひとつの普遍的な物語としてしっかり結実している。『山の声』はその最たるもので、加藤文太郎と吉田富久の山行を通して、人とともに生きることの難しさとそれでも人のあたたかさを求めてしまう人間の姿を描ききっている。」

 

 大竹野の高校時代の先輩であり劇評家の広瀬泰弘は『大竹野正典劇集成』の『山の声』の解説でこう書く。

 

 「実話をモデルにしても、いつも彼の妄想はとめどなく暴走し思いもしない方向に広がるのが常だった。だが、この作品はそうではない。加藤文太郎は彼自身であり、いつものようなデフォルメはされない。実話に忠実な伝記的作品に仕上がっている。では、ここに大竹野はいないのか、と言われると、そうではない。ここに描かれる加藤文太郎が大竹野その人なのだ。」

 

 究極、人は己でしか在り得ず、いかなる想像力を働かせても、自分の感性の視界の範囲でしか世界が見えない。作家は、対象の持つさまざまな側面から自分が理解できる部分を切りだして、人物像を造形する。大竹野が描く加藤に、大竹野を知る人たちが彼を感じたとしてもそれは当然のことなのだろう。それにしても、休筆期間中山登りに熱中していた大竹野が、2年の沈黙を破るとき、加藤文太郎を選んだことは興味深い。加藤におのれを見、心の変遷を重ね合わせたのだろうか。大竹野が加藤という自分の分身とも言える自らを映しこめる存在に出逢ったことは邂逅としか言いようがない。

 近く感じるからこそなのか、作家の本能なのか、大竹野の筆は、2人の最後の山行の失敗の理由を詰めることに容赦ない。「事件もの」を多く手がけてきた大竹野ならではの鋭さで遭難の顛末が浮き彫りにされてゆく。

 

「—今まで自分しか信用出来へんかった男二人が信頼しあういうのはどういう事や 二人やったら 何でも出来るいう気になってたん違うんか 山をなめてしもたんと違うか」

「—俺らやったら二日もあれば 北鎌尾根をやっつけて 槍平の小屋に戻ってこれるて信じとったからやろ」「君の云う通りや 俺は知らん間に山をなめとったんかも知れん」

 

 悪天候のなか、ふと風がやみ雪もおさまる。引き返すべきか行くべきか。偽の晴れ間ではないかという疑いが湧き危険を察知しつつも、2人いる心強さとあまりに美しい槍ヶ岳の山の呼ぶ声に負け、彼らは行ってしまう。ついつい欲が出て進みつづける彼らを突風がなぎ倒し猛吹雪が襲いかかってくる。もう逃げられない。そこからは圧巻である。劇作家であり登山家である大竹野にしか書けないであろう生々しさで2人の苦闘の様子の描写は続き、とうとう吉田の亡くなる瞬間が訪れる。クライマックスである。

 

「—前略—俺は吉田君の全身を抱いて擦りながら 大声で何度も吉田君に呼び掛けた 甘納豆を口に放り込んでやったが 口が動かん 噛め吉田君 噛んでくれ 吉田君 吉田君 吉田君!ついに俺の腕の中で吉田君は—」 登山者1、背後に立っていた登山者2を見た。

「吉田君 俺は今まで—誰と喋っとったんや」

 

 どんでん返しである。一瞬にして今までの対話は加藤の心の中の一人芝居であったと判明する。

 

「また風 吹いてきたで—頑張りや先輩 湯又までもう少しや」

 雪が本格的に降り出し、登山者2の姿が見えなくなった

 

 このあと登山者1加藤の最後のセリフが語られ舞台は終わる。最初からすでにこの世の人ではなかった登山者2を演じる村尾オサムは自由闊達な青年を演じつつ、途中から徐々に透きとおるような演技にシフトしてゆき、ふっと消える。比べて、戎屋が演じる登山者1は最後まで生身の人間である。最後まで生き抜こうとしている、ポジティブな山男である。ついに意識を失う直前、疲労の限界に達しながらも、渾身の力をふりしぼって「花子 登志子 ただいま」と言う。その半べそををかいたような笑顔がまぶしく悲しかった。

 最後にもう一つだけこの場面をあげたい。2人が家族への思いを語る場面である。独身の登山者2に「自分の家族を持つてどんな気持ちや」と聞かれて登山者1はこのように答える。

 

「なんとも云えんよ 仕事終わって家に帰ると 玄関に灯りが点っとる 味噌汁と秋刀魚の焼けた匂いが 外まで匂てきよる 登志子の泣き声とそれをあやす花子のねんねんよの唄が聞こえる—玄関で俺は 戸も開けんとしばらく呆っと立っとった—自分にこんな幸福が来たことに なんでか後ろめたささえ感じたよ」

「温かいんやろな 奥さんも赤ちゃんも」

「ああ 得も言われん温かいもんや」

 

 このくだりは、登山者1の最後のセリフの通奏低音となり終演後も甘く優しく響きつづける。嗅覚や聴覚までが動員されるこの文章があるから、その場所がまざまざと見え、加藤の魂がヒマラヤでなく家庭に帰っていったことが納得され、観る者の心は救われる。不慮の事故でみまかった大竹野に遺書はないかもしれないが、遺作となったこの作品にこのような温かいひとむらの言葉を遺した。彼の天上からの心からの挨拶である。救われるのは観客や遺された家族ばかりではない。

 

   あめつちもわからぬまでに雪おどり ましろき闇に人は逝きたり

   演じいる死と知りつつも 悲しみはうつつの人の死と混じり合う

​   たましいは逝かんせつなを飛びきたり夕餉のにおう家にもどりぬ

『山の声』撮影:藍田マリン

セリフと広瀬泰弘氏の文章は、『大竹野正典劇集成1』(松本公房、2012)による。

​大竹野小寿枝氏、瀬戸山美咲氏の文章の引用は、それぞれ上演パンフレットによる。

 

誰かが今ここで語ってくれているということ―ヤネック・ツルコフスキ『マルガレーテ』、akakilike「はじめまして、こんにちは、今私は誰ですか?」、Ping Chong「生きづらさを抱える人たちの物語」

                     上念省三

『生きづらさを抱える人たちの物語』

撮影:冨田了平

■上念省三
(じょうねん・しょうぞう) 
ダンス評論、公演企画制作。文化庁芸術祭(舞踊・関西)等の審査委員、西宮市文化振興課アドバイザー、いくつかの大学の非常勤講師など

■ヤネック・ツルコフスキ『マルガレーテ』
2019年5月17日~24日(22日) 
ロームシアター京都ノースホール 
コンセプト・出演:ヤネック・ツルコフスキ
日本語吹替:大庭裕介(カンパニーデラシネラ)

『マルガレーテ』

​撮影:守屋友樹

 誰かが語っているのを見聞きしていて、語っているのは誰なんだろうとか、今誰かが何かを語っているという事態自体がどういうことなんだろうと考えてしまうとか、あるいはここで語られているのはぼくのことではないだろうかとか、ぼくもこのように語りうると確信してしまうこととか、それを錯覚と呼んでしまっていいかどうかわからないのだけれど、とにかく劇場とかの空間でそういうことに晒されることが増えているように思う。


 多くの場合、それは演者のぼくを巻き込む強い螺旋的な力によるもので、つまるところその役者なりダンサーなり語る人がうまいからそういうことが起きるんだと思わされるのだが、ちょっと待てよ、その時ぼくは、あるいはその人は対象を超えてあるいは通過して、どこか違う場所へさまよい出てしまっていたんじゃないか。

■ヤネック・ツルコフスキ『マルガレーテ』


 たとえば、ヤネック・ツルコフスキJanek Turkowskiというポーランドの演出家だという人が(すみません、全然知らない人だったもので)、1週間11公演にわたって、各回20人ほどの「観客」(というのもどこか違和感があるが)にお茶を振舞いながらしゃべっている『マルガレーテMargarete』という舞台というか作品というか経験、「世界的成功を収めている作品である」とポーランドの国の文化機関であるアダム・ミツキェヴィッチ・インスティチュートInstytut Adama Mickiewiczaが運営しているCulture.plというウェブサイトで紹介されているぐらいだから、それはそうなのだろうが、立派で大層な作品という構えは全く感じられず、ヤネックさんのリビングに招かれたみたいな感じで、毛糸の四角モチーフを継ぎ合わせたブランケット(もう少しいい言い方ないかな)はヤネックさんのお母様の手づくりだそうだし、用意された機材も何だか素人っぽいではないか。

 実はそのブランケットを見た時すでに、ぼくは小さい頃に実母が内職の毛糸の余りで編んでいた座布団カバーやテーブルクロスを思い出して、後頭部をどこかにしたたか打ちつけたような感覚になっていたのだが、それはもちろん全く個人的なことで、しかしあの内職仕事を時々納めに行っていたのは滝の茶屋駅から山側の何だか瀟洒なお家だったなとか、その仕事では編機を使っていたのだっけとか、はるか50年以上前のことを断片的に、滝の茶屋駅からの坂道で日差しがまぶしかったようなことさえ思い出していた。


 ヤネックさんは、そんなぼくのセンチメンタルな浸りようなどそっちのけで、ポーランドとの国境近い東ドイツのどこだかの蚤の市で誰かの撮影済みの8mmフィルムや映写機を買ったことがこの作品に取り組むきっかけとなったこと、どんなものや人物が写っているかを分析したこと、写っている頻度がとても高い女性がいること、それがフィルムの紙ケースに書かれていたマルガレーテ・ルービという女性ではないかと推理するに至ったこと、そのマルガレーテなる人物の交友関係や家族や謎の男性の存在をあぶりだすこと……で、なんだか推理ドラマのような様相を帯びてくる。


 推理劇のような展開になると心配なのは、大きなドラマを期待してしまうことと、解決することに興味が集中してしまって細部を味わうことがなくなることで、たとえば実はマルガレーテかその友人だかは東欧側のスパイで観光に見せかけてヨーロッパ各地で工作活動をしていたのだったとか、実際ヤネックさんもそれに類することを口走ったりはしたのだが、もちろんそんなことがあるわけもなく、ただマルガレーテさんの実在が突き止められ、彼女が入所しているという老人ホームを訪ねることになる。


 ここでもまた、過去の自分への劇的な再会とか、感激のあまり取り乱すマルガレーテ…を想像するが、映像を見せても彼女はあまり目が見えないのと言ってほとんど反応をせず、あっさりと引き下がることになるのだが、ぼくも施設に入っている93歳の母親が何かと無反応だったり、その時には喜ぶもののすぐに忘れてしまっていたりするのを思い出して、暗い気分になるが、さらに蚤の市の再訪によってこのマルガレーテとされている人物の真偽・実在がわからなくなるに至って、後出しジャンケンだが、そうだよ、最初から何だか嘘っぽいなあ、胡散臭いなあと思っていたんだよ、とぶつぶつ言いたい気分になる。


 考えてみたら手の込んだ一人芝居だったよなと思う一方で、決して悪い後味ではなく、むしろそれにしてもこの数十分の間に揺さぶられ、思い出させられた事ども、新たに与えられた情報や感覚の多さを、どう処理すればよいのかと、軽く心地よい幻暈感の内に戸惑っていることに気づく。

『マルガレーテ』

​撮影:守屋友樹

 約200人収容のノースホールで定員25人が半円状に一人のパフォーマーを取り囲むサロン的な上演、しかも数種類の紅茶から選んで振舞ってもらえて、何だかおもてなしをされているような柔らかな空気の中で、はるかポーランドからやってきた人のよさそうな演出家によるフィールドワークの発表のようなものを演劇作品として聴いているというのは、友人宅にお呼ばれされたような緩い緊張感のある状況で、桟敷で小さな座布団に座っていたぼくもさほど足腰の痛みを感じることもなく、終始夢中になって受け止めたのは、ヤネックさんってよさそうな人だなぁという漠然とした印象と(だから本稿でも、ヤネックとかツルコフスキとか呼べなくている)、語られた時間や空間の大きな旅をしたような軽い疲労感、ぼく自身のいろいろな事情のある母親への関わりについての結構面倒臭いいろいろな感情が思い起こされ増幅されたこと、この中に果たして真実はあったのだろうかという戸惑い、うちには8mmテープはないが古いアルバムの写真でこんなパフォーマンスがぼくにもできるんじゃないだろうかという妄想。


 語られたことはぼくにとってほとんど何の意味もない情報であり、というのも、社会主義側のヨーロッパの人々の生活がどうだこうだということに情報として全く興味がなかったからでもあるし、これを演劇作品として観た時に、ヤネックさんは演出家なんだよねと確認しつつ、またこのユニークな親密空間を作り上げた力技に最大限の敬意を表した後で、この時間を経験したことによる演劇的興奮は何だったのだろうかと振り返ると、内容がどうでもよかったというわけではないが、ヤネックさんの表情や語り口をダイレクトに楽しめたということに尽きるのではないか。


 実はこの作品は二重の語りから成っていたことに改めて気づいたのだが、同時通訳のような形で、配られたイヤホン越しに大庭裕介という俳優の吹き替えで翻訳台本を聞いていたことも不思議な感覚で、大場の本当にライブで同時通訳をしているような淀みやつかえのある語り口は、ヤネックさんの語りに邪魔するような存在とはならず、むしろそこに隙間が生まれることで相乗して時間と空間を滑空するような効果があり、観客の存在の仕方を断裂するような結果となったことも印象に残っている。

■akakilike『はじめまして、こんにちは、今私は誰ですか?』


 ダンス作品において何かが音声言語で語られることそのものについての違和感や驚きは、近年多少弱まってきたとはいえ、もちろんピナ・バウシュをはじめ、シディ・ラルビ・シェルカウイ、金森穣らの作品や発言をみていると、言葉をどれだけ使うかどうかはともかく、演劇とダンスの境界について解消の方向に向かって考えるという状況が迫っていると思われるのだが、語ること、さらに演じることや何なら踊ることも含めたそれらの行為が舞台などの表現空間で発現されることそのものについて、日常という立地から出発しようとすると拭いがたい違和感があって、それをぼくなどはもう自明のこととして無批判的に入り込んでしまっているようでもあり、しかしその違和感を含めた本質を本当の意味で表面化できるのは、演劇の側よりもダンスの側からではないかと思っている。


 ぼくがダンスの側の人だからかもしれないが、ダンスは(コンテンポラリーダンスの多くは)身体以外のものをあまり使わず、比較的シンプルで根源的な表現だから他のさまざまなメディアを付加しやすいのではないかと思う一方、シンプルだからこそ、ストイックでミニマルな方向性が強く、ほかの要素を取り入れにくいという場合もあるだろうと思うが、倉田翠が初対面だろうか、自己紹介しながらおばちゃんやおっちゃんにバレエを踊ったのは、とにかく美しかった。


 それは、倉田が主宰するakakilikeの『はじめまして、こんにちは、今私は誰ですか?』での一コマだった。

『はじめまして、こんにちは、今私は誰ですか?』

撮影:前谷開

■akakilike『はじめまして、こんにちは、今私は誰ですか?』
2019年2月15~16日(16日)  
ロームシアター京都ノースホール 
演出:倉田翠 
映像・演出助手:平澤直幸 
出演:倉田翠、倉谷誠、丁春燁、浦宏年、岩本義夫、小林久江、山田茂、村木美都子ほか

 この作品は、京都市・東九条の高齢者や、その地域の人々と対話を重ね、構成したもので、もともとは昨年、京都市「文化芸術で人が輝く社会づくりモデル事業」多文化共生プロジェクトとして昨年上演されているというが、ぼくはそれは観ていない。


 この作品を観た後で、ぼくの中で興味や関心として残っていることはたくさんあるが、最もしつこく澱んでいるのは、このマイクを持ってしゃべっている人が多かったこの作品が、ダンス作品あるいはダンスを中心とした舞台作品であるとすれば、一体どのようにしてそういう見方ができるのだろうかということであって、そんなことほとんどの人にとってはどうでもいいと思われる入り口だろうが、ぼくにとって倉田はまずダンスの人であって、彼女が何をしようがぼくにはダンスだと思えるし、それは彼女が彼女であることの宿命のようなもので、実際認知症が進んでいるらしい「山田さん」を舞台上に引き出して、どう見ても何度も会っているらしいのに作品タイトルのように「はじめまして、こんにちは」と挨拶をしないと始まらないところから、山田さんに倉田自身を思い出させるためか、印象付けるためか、言葉だけでは間が持たなくなったためなのか、それとも「今」だけを生きている「山田さん」の現在性に対抗できるのはダンスだけだと居直ったのか、倉田はバレエのほんの数小節を踊る。


 それを、美しいと思ったのだ、ぼくは。


 「今私は誰ですか」という問い方のおかしさに気づき、直後に覗き込んでしまった深淵がまだ体のどこかに残っているのは、「山田さん」との関係性の中で山田さんにとって私が明確に誰という存在ではなくなってしまうかもしれないのに、「私」は山田さんを山田さんとして見ていて、言うなれば何らかの愛着さえ持っていて、そのことを山田さんは「今」はわかってニコニコしてくれているけれども、果たして数十分後に再び舞台に現れる山田さんはもうそのことというか、「私」のことを全く覚えてないようだということについて、やはり「私」には少しやりきれなさの混じったおかしみを感じるところがあって、だからか、踊るのでもあり、やはり「私は」に連なる最終的な述語が踊ることである、倉田翠なのだな。


 市役所の人とその娘たち、韓国系の教会の人たち、地区の喫茶店のママ、地域で活動するNPOの人たち、在日の高齢者や障害者とそれを支援するNPOの人たち、薬物依存の経験があるのだろう人たち……いわゆる「生きづらさ」を抱え、社会に包摂されにくい多くの人と出会い交わる時に、自分はどちら側の人間なのかというある種のためらいを持って「私は…」といわなければならないことがさぞ多かっただろうと思うが、そこでそもそもの<京都市「文化芸術で人が輝く社会づくりモデル事業」>で来たというふうに紹介してみたところで、一体何になろうか、むしろ警戒されてしまうだけではないか、出会う人たちは皆それぞれの佇まい、雰囲気を身にまとっていて、言葉で紹介されずともどんな感じの人なのかわかるように立っているというのに、もし「ダンサーです」などと言ってみたところで、ふーんと木で鼻をくくられたような空気になってしまうだろうことは、多くの舞台人は経験していることではないだろうか、というぼくも「ダンス評論とかしてます」とか言ってしまった時の白々とした空気の感じはよく経験している。


 「ダンサーなん? ちょっと踊ってみてよ」といわれた空白の冷え冷えとした感じを味わってしまう前に、自分から踊ってしまう倉田はすごいなぁと思うと同時に、その自己紹介としてのダンスは、飾ったり装ったりするものではなく、自身をつぶさに理解してもらうためのものだったから、狭い畳敷きの部屋や施設の廊下みたいなところで長い手足を生かして鮮やかにモダン・バレエっぽい動きを見せる姿には、まっすぐに会場で投影された彼女の子ども時代のレオタード姿が重なるし、少し離れると市役所の人の娘さんたちがサッカーボールと戯れている姿が重なるし、さらにその他、「山田さん」をはじめとする様々な来歴の人たちの幼少の姿をかすかに思い浮かべる心持ちになるし、多くの(元、も含めて)バレエ少女たちがもしかしたらギリギリのところに追い込まれても踊ることにアイデンティティを求め、しがみついていたような思いを思い、心が動く。

『はじめまして、こんにちは、今私は誰ですか?』

撮影:前谷開

■Ping Chong’s ドキュメンタリー・シアター『生きづらさを抱える人たちの物語』
2019年1月26~27日(26日)
グランフロント大阪 ナレッジシアター 
作・演出:Ping Chong 
企画・共作・共同演出:阪本洋三 
出演:岩本陽、大橋ひろえ、ジュリア・オルソン、成田由利子、西村大樹、HARMY

https://ue-j.com/

 この作品全体を思い出すと、多くの人の人となりや姿が断片的とはいえ舞台上や映像で如実にわかるようになっていくという意味でも、様々な人や施設を通じてモザイク状に地域の断面を描いていくという意味でも、優れたドキュメンタリーだったといえるし、ダンスする倉田の身体の貴さを深く認識させるものであったことは確かだし(ダンス作品であるかどうかが重要では全くないとも思うが)、言葉で語られる物語は断片的で物語自身の転結よりは語る人の言葉以外のありように興味が向かうような種類のものであったし、語られる内容よりも語るスタイルが興味深いという点で、やや牽強付会気味ではあるが、優れてコンテンポラリー(同時代的)な表現だったように思う。
 
■Ping Chong’s ドキュメンタリー・シアター『生きづらさを抱える人たちの物語』


 芸術の社会包摂や波及効果が言われるようになって、そもそも芸術とは何だったのか、どのようにして成立したのかと考えると逆にそのほうが本質だったのではないかと思われたりして、なかなかに考え甲斐のあるテーマだなと思う一方で、自分自身が地方自治体に関わるようになって、現代の文化行政ではこれらの考え方を避けて通るわけには行かず、文化芸術の予算を獲得するためにはこれらを打ち立てざるを得ないわけで、どちらかというと外部に依存しない芸術の価値を重視してきたぼくとしては、日和ったとか変節したとかいう内攻がないわけではないが、自分自身が芸術や文学によって救われてきたという意識があるだけに、芸術の効用はと問われると、ぼくがまだここに生きていることですということであり、もちろんそれはよいことなのかどうかはわからないけれど。


 芸術によって救われたと感じている人は案外多いんじゃないかと、先日も爆笑問題の太田光が「ピカソによって救われた」というのが改めて話題になったし、NHK「バリバラ」の「バラフェス~ばらばらな音楽の祭典」を見ていて音楽によって救われたと思われるいわゆる障害者がたくさんいることに、逆にこちらも救われる思いがしたのは確かだ。


 「バラフェス」に出ていた吃音の高校生ラッパー達磨のパフォーマンスを見ていて複雑な思いになったのは、マイナスの意味については彼のせいではなく、むしろ歌詞の内容も最近の日本人ラッパーらしく自身の「生きづらさ」と他者や社会との軋轢をきっちりと語る優れたものだったと思うが、それとは別に、吃音は障害だったということを改めて突きつけられて、お気づきの方も多いと思うがぼくも吃音者ではあるがあまり「生きづらさ」を意識していないという、皮肉っぽくいえば喜ばしい状態ではあるものの、何だか獅子身中の虫みたいな存在であるなぁという思いが生じたからで、果たしてぼくはこの吃音というわが身の事態にきちんと向き合ってきたんだろうか、半世紀以上も、という、いささか暗鬱な思いにとらわれてしまっていたのだ。


 「生きづらさ」という概念は主観に重点を置いている言葉のようで、他人から「あなた、生きづらいでしょう」などと言われる筋合いのものではないし、だからこそこのPing Chongの『生きづらさを抱える人たちの物語』のように「障害のある方や社会に生きづらさを感じている方」(同公演出演者募集記事から)が自らの言葉で主観的に語ることで、その人にとっての生きづらさとその原因となっている状況が、かえってクールに客観的に見えてくるというドラマを生んでいる。


 公募で選ばれた出演者は、統合失調症+性別違和、交通事故による全身麻痺からの回復過程、軟骨無形成症(低身長)、ろう、視覚障害、多発性硬化症とそれぞれ様々な深刻な事情を抱えていて、一人ひとりが生い立ちから現在までを写真なども使って淡々とテンポよく語っていくという構成であるが、淡々としている上にリズミカルな合いの手まで入るせいか、とてもシリアスなはずの個々の状況が非常に楽観的なものに思えてしまうのだが、あくまでそれは表面だけのことで、たとえば多発性硬化症のダンサーHARMYは、プロフィールによれば、幼い頃から新体操を自分のアイデンティティとしてきただろうに、21歳で発症し、緩和・再発を繰り返し、29歳で脳にまで様々な支障が生じるようになり、今自分がどこにいるのかわからなくなったり、何かを持っても何をするんだったかわからなくなることが頻発したりしている状況で、それでもダンスの出演や指導、作品提供を続けていて、いつ何時それができなくなるか、わからなくなるか、という恐怖に苛まれているということを知ると、多くの観客は舞台上の彼女と恐怖や不安を共有するようになり、続く彼女の美しく鮮やかで溌剌としたダンスを観て、新体操からキャリアをスタートさせて、バレエやモダンダンス、ジャズダンス、ヒップホップ等、様々なダンスを学び身につけたと思われる堂々とした姿に、呆気にとられるような驚きと畏敬と共に、彼女の現在、そしてここに居合わせている自分たちの現在を重ね、彼女はこのダンスをもう明日は踊れないのかもしれない、と、身が凍る。​

『生きづらさを抱える人たちの物語』HARMYのダンス 撮影:冨田了平

 舞台芸術そのものの恐ろしさと魅力が、今ここにしかないことにあるのだから、当然のこととはいえ、HARMYのこの危機感、また視力がどんどん衰えていくという成田由利子の現在を思って、何と言ってもこれはリアリティではなくてリアルであって、演劇的虚構ではないと思うが、でもやはり舞台上の作品として提出されているのでもあって、きっとそれは現実を現実としてきちんと送り届けるためには、ある構成や演出が効果的だということだから、それにしても現実の重みとそれを背負っている人の現在を想像して、何度も何度も身が凍る。


 終演後知人が、泣いちゃダメだと思うからこらえてたけど、もう全身で、ダメだ、と言っていて、ぼくも激しく同感したのだけれど、なぜ泣いちゃダメだと思うんだろう。


 このように語りかけられ、同じ時空を共にした以上、ただ舞台の向こうのこととして泣いていちゃダメだ、一緒に何か(別のものでも)背負っていくんだよ。


 語りかけられちゃってるんだもんな。
 

近年の京都――小劇場環境の動き

坂本秀夫

 

■THEATRE E9 KYOTO

 〒601-8013 京都府京都市南区東九条南河原町9−1 ​撮影:編集部

■坂本秀夫
(さかもと・ひでお) 
AICT関西支部事務局長、演劇研究、ライター

■京都芸術センター

 〒604-8156 京都市中京区 室町通蛸薬師下る山伏山町546-2

■ロームシアター京都

​ 〒606-8342 京都市左京区岡崎最勝寺町13

 近年の京都の小劇場の動きを劇場環境という視点から俯瞰してみようと思う。

 京都では2015年から2017年にかけて5つもの小劇場が閉館した。これは京都小劇場界ではとても大きな出来事であり、京都から小劇場がなくなっていくのでは、と多くの者が危機感を募らせていた。その中でも2017年8月31日の「アトリエ劇研」の閉館は重要な意味を感じる。前身である「アートスペース無門館」開館の1984年4月から、30年余に渡って京都の小劇場を支えてきたその功績は無視できるものではないだろし、それが失われるということの影響は大きいと感じる。


 劇場としての各種活動や、アートスペース無門館やアトリエ劇研から育っていった表現者たちについては膨大な数になるためここでは細かく触れることは避けるが、このアトリエ劇研の閉館というのは「若手や中堅の表現者たちにとって使いやすい劇場が閉館した」、ということのみに留まらないように思う。


 これは、アトリエ劇研がただの貸し館ではなく、遠藤寿美子氏や杉山準氏などの歴代のプロデューサー・ディレクターたちによる積極的な活動により、京都の小劇場環境そのものに大きな波及効果を及ぼしていたためだ。様々な作品制作支援、演劇祭、技術スタッフたちの集まりによるスタッフルームやNPO法人設立。これらにより京都を拠点として活動する表現者たちにとっては、自分たちの表現を深め、ステップアップしていける場所であったように感じる。そういう意味において、京都における「リージョナルシアター」の役割を正しく果たしていたのがアトリエ劇研だったのではないだろうか。


 大げさに言ってしまえば、「アトリエ劇研後」という時期に今の京都は来ていると言える。
 

 かつて閉館間際の時期に元アトリエ劇研ディレクターの杉山準氏(現NPO劇研理事長)と話をさせてもらったが、その中で杉山氏が「(京都の小劇場環境において)アトリエ劇研が担っていた機能が、他の劇場(京都芸術センター等)が担ってくれるような状態になっている」というような内容を語ってくれた。前後を省略しているため伝わりにくいと思うが、これは、地域の小劇場環境においてどこかの劇場が担わなければならない機能を、苦しい中でアトリエ劇研が担っていたが、10年前20年前と比べて環境が整い、『役割を終えた』というようなニュアンスだったように思う。(例えば30年前であれば、京都の小劇場は、稽古場はおろか作品を上演する劇場にさえ困るような状態であった。また宿泊施設や常駐スタッフ、演劇祭、表現者への各種支援など、現在であれば公共劇場や大企業による資金支援等がある劇場がやるべき機能を、個人所有の劇場であるアトリエ劇研が担っていた期間が長くある。)

 その劇場や小劇場環境についての「機能」や「役割」について杉山氏との話の中で上がっていたのは、「京都芸術センター」や「ロームシアター京都」(2016年1月開館)などだ。2000年に開館した京都芸術センターは、並行して設立された京都舞台芸術協会とともに、当時アトリエ劇研などで活躍していた演劇人たち(松田正隆氏、鈴江俊郎氏、土田英生氏、杉山準氏ら)が環境整備のために大きく貢献している。

 
 公的な支援を受けた劇場が、ただの貸し館ではなく、地域の表現者の育成も視野に入れた上での運営をしている。(京都の芸術祭、演劇祭である「芸術祭典・京」→「京都ビエンナーレ」→「演劇計画」の流れを汲んでか )「KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 」も京都芸術センター、ロームシアターと連携しながら2010年より毎年開催しており、今年はついに10周年となる。

 

 また同様に、KYOTO EXPERIMENTと連携している京都造形大学の舞台芸術コースの設立(2000年)なども環境という面において重要だったようだ。このような芸術系大学や演劇系学部のその地域への影響は大きく、京都造形芸術大学以前にもアトリエ劇研スタッフルームに近畿大学の演劇芸能専攻(当時)などの卒業生が複数在籍していたり、その後京都造形芸術大学から卒業後同スタッフルームへ加入する者もいた。

 

 こういった地域の劇場文化へ対する様々な流れは、個人所有の劇場と有志の集まりではなかなか出来ないことのように思う。しかし、これらの流れの根底にアトリエ劇研があったことは疑いようがない。
 

 なるほど、確かに、杉山氏の指摘の通り、アトリエ劇研が有志たちの努力により担っていた小劇場環境における「機能」が他の劇場に移り、そういう意味では、役割を終えたと言えるかもしれない。しかしこれら新たに開館した劇場は、ある程度活動歴のある表現者向けという側面も感じさせ、未だ評価の定まっていない若手表現者には敷居の高い部分もあるだろう。そのような、アトリエ劇研が担っておりなお他の劇場では引き継がれていない部分などを考えつつ、それらを念頭に、アトリエ劇研後とも言える近年の京都の小劇場環境を見ていきたいと思う。

■アトリエ劇研

 京都市左京区下鴨塚本町1 に位置していた

写真は​Facebookのページから

■人間座スタジオ

 〒606-0865 京都市左京区下鴨東高木町11

■アートコミュニティスペース KAIKA

 〒600-8445 京都市下京区岩戸山町 江村ビル2F

■UrBANGUILD

​ 〒604-8017 京都市中京区 三条下ル ニュー京都ビル 3F

■京都市東山青少年活動センター

 〒605-0862 京都市東山区清水130-6

■スタジオヴァリエ

 〒606-8316 京都市左京区吉田二本松町20-1

■アートコンプレックス1928

 〒604-8082 京都市中京区弁慶石町56 1928ビル3階 

 現在はGEAR専用劇場

■アンダースロー

 〒606-8266 京都市左京区 北白川久保田町21地下

 アトリエ劇研後期の頃から閉館後の現在も含め、アトリエ劇研でよく公演をしていたカンパニーの何割かが、代わって利用し始めているのが「人間座スタジオ」だ。左京区下鴨高木町というアトリエ劇研からほど近い場所であり、新劇系劇団の所有スペースを貸し館として解放するという形態もアトリエ劇研(の前身のアートスペース無門館)に似ている。小規模な空間であり、とてもリーズナブルな利用料金も若手カンパニーに好まれる所以であろう。若手カンパニーの利用増加を受けてか、2018年から「田畑実戯曲賞」という独自の戯曲賞を創設したりと新たな展開を見せている。
 

 四条烏丸近くのアートコミュニティスペース「KAIKA」でも若手カンパニーの公演が増加していた。「劇団衛星」系の所有スペースで、既存カンパニーのスペースの開放、比較的低料金という部分で人間座などとの共通項を感じる。(近年、単純な貸し館はやめる方針らしい)
 

 公演のための場所という意味では、カフェレストラン併設での数十席の小スペースである、木屋町の多目的アートスペース「UrBANGUILD(アバンギルド )」なども、小劇場系の表現者が多く利用するようになっているように見える。東京や大阪でも見られる動きかと思うが、カフェやギャラリーなどの50席にも満たない小規模スペースでの作品上演という動きである。
 

 未評価の若者たちが低価格で利用できる場所といえば、「東山青少年活動センター」や「スタジオヴァリエ」(80~81年ごろ開館) なども以前と変わらずよく利用されているようだ。


 敷居の高さ(継続的な活動と活動への評価)や手続き、利用料金の問題などから、今日京都で若手が利用できる場所がなくなったとの意見を時折耳にする。どうやらこの問題に関しては、アトリエ劇研閉館に限定した話というよりは、同時期に5つもの小劇場が相次いで閉館してしまい、利用できる場所が突然極端に減少してしまったことからくる問題のようだ。
 

 また、京都に拠点を持ちながら公演は大阪で行う、という流れも一部発生している。人口や劇場の規模、雰囲気の問題などもあるだろうが、適当な場所がないという意味では近い問題だろう。こちらについては、やや時期がずれるが、2012年に京都の中心部である三条御幸町の「アートコンプレックス1928」が貸し館を止めたことの影響が大きいようだ。同劇場でよく公演していたカンパニーが、現在は京都公演を行わず大阪公演を行う、という事例は多い。これは、いわゆる小劇場のエンタメ系カンパニーにとっての雰囲気の合う劇場が京都では見つけにくくなったということではないだろうか。
 

 同時期に使い勝手のよい複数の劇場が一度に閉館した。やはりこの影響は大きかったのであろう。


 しかしそれでも、ここまで見てきたようにいくつかの場所は残されており、かつて30年前、自身の出身大学の教室で稽古し教室で公演を行っていた頃ほどまでに後退しているわけではない。


 あるいは、時期が前後するが、活動初期においてアトリエ劇研で多く公演し、現在京都のみならず全国的な評価を有している「地点CHITEN」が2013年から自前の稽古場兼アトリエとして「アンダースロー」という場所を持ったことも、創作環境の整え方という面で、一つの回答ではないだろうか。


 「地点CHITEN」のように全国的な評価を得ている京都のカンパニーはいくつかある。著名な戯曲賞という面だけを見てみても、「地点CHITEN」と繋がりの深い松原俊太郎氏の岸田戯曲賞受賞(2019年)だけでなく、ヨーロッパ企画の上田誠氏の同賞受賞(2017年)、「悪い芝居」の山崎彬氏のOMS戯曲賞受賞(2018年)と、関西を越えて活躍を見せている者たちは多い。
 

 これはやはり、京都市が学生の街であることが大きいように思う。京都市は大学生が人口の1割近くを占めており、芸術系大学、短期大学の数も多くこれらも人口比では東京とほぼ同数である。つまり(先の芸術系大学の話とも繋がるが)若者が多く、新たな表現者たちが出てきやすいのだ。これは京都という地域の特殊性であり、他の地方都市と比べ小劇場環境としてとても幸福な部分だ。
 

 そして、彼ら新たに評価される若い表現者たちも、やはり活動初期においてはアトリエ劇研などで作品を上演している。
 

 有力な劇場の相次ぐ閉館により、小劇場の表現者たちが以前より活動しにくくなるということも心苦しいことだが、さらに新たな表現者が出現しなくなってしまうようだとしたらそれは不幸だ。大学が多く、新たな表現者が出てきやすい下地があるのであれば、そういった若者たちが羽ばたける環境がなくては先細りになってしまう。


 さて、表現者を育てる「リージョナルシアター」的な側面、劇場の「機能」という面であれば、やはり「THEATRE E9 KYOTO」の今後が注目される。アトリエ劇研閉館を受けて、当時のアトリエ劇研ディレクターのあごうさとし氏らが中心となり劇場創設のプロジェクトを開始し、クラウドファインディングなどによる資金集めを経て、この2019年6月に開館となった。
 

 その創設プロジェクトの開始からアトリエ劇研閉館の流れを汲んでいるこの劇場は、「育成」「地域性」「継続性」「京都の小劇場文化(環境)」と、アトリエ劇研が担っていたが現在京都に減少しているのではないかと感じられる「機能」を担おうということを、劇場の方針として明確に打ち出している。まだ始まったばかりの劇場であるため今後の展開は分からないが、アトリエ劇研と関係の深い者も多く関わっているこの劇場は、良い意味で京都の小劇場環境に影響を及ぼす劇場として活躍を期待したい。

 景気状況は創作環境に大きく影響する。資金の乏しい若手の表現者には特にそうだ。(数十名規模の小スペースでの作品には独特の良さがありそれを悪く言うつもりはないが、やはり金銭的な面での選択肢が限られてくる。)
 

 かつて小劇場ブームの時代の小劇場環境というのは、好景気に裏打ちされた企業メセナの時代ではなかっただろうか。そしてその後、失われた20年と言われる長きに渡る不況の時代は、公的助成金と公共劇場の時代だったのではと思う。ここ数年、景気のゆるやかな回復基調が続いている。このまま回復基調が進み、失われた30年とならなかった場合、次の時代はどのような小劇場環境の時代となるのだろうか。
 

 先にも触れたがTHEATRE E9 KYOTOは、クラウドファインディングで劇場設立の資金を募るという、これまでにない形態から始まり、「京都に100年続く小劇場」をと銘打っている。長期的継続性を視野に入れているのだ。近年閉館した京都の小劇場は、建物の老朽化や所有者の高齢化を理由に閉館している。劇場の稼働率は高かったにも関わらず、劇場、運営、両面の構造的理由により継続困難となったのだ。それへのアンチテーゼとなるべくことを、明らかに意識している。これもまた、これまでに見られなかった思想ではないか。これを萌芽とし、次の時代の小劇場環境が始まっていくのだろうか。

 

 アトリエ劇研後期から次の様々な動きが始まりだし、少しずつ進行し実を結び始めているのが現在の京都だろう。やはり今は、過渡期に当たるのではないかと感じる。

 

 いずれにせよ、京都の小劇場環境は、表現者たちの自発的な行動によって表現の場を獲得し、環境を整えてきたという流れがある。アートスペース無門館のスタート、そして無門館からアトリエ劇研への変革の折、利用しやすい公的な場所としての京都芸術センター設立の折。当時の、危機感を持った表現者たちが動いていた。環境を見据えていたのだ。
 

 この過渡期の京都が今後どのような方向に動いていくのか、期待しつつ注視したいと思う。

© 2019 by AICT Kansai

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