瀬戸 宏    北京で観たSCOT『リア王』
藤城孝輔    ねばつく街と、海の誘惑

       ――第一回田畑実戯曲賞受賞作品『ひたむきな星屑』
瀧尻浩士    恋愛の河底に眠る政治性――『スカイライト』評
番場 寛    衣装としての裸体と物語的時間の構築

      ――「第2回京都国際舞踏祭」4日目を観て
山﨑 達哉    能勢人形浄瑠璃鹿角座の挑戦――能勢人形浄瑠璃 淨るり月間

 

 今年4月から来年3月末までの一年間の予定で、中国北京・中央戯劇学院に訪問学者として滞在している。北京の街は不景気が伝えられ、実際にショッピングモールやレストラン閉店の話も聞くが、演劇に関しては私が直接観劇した劇場に限れば、大劇場から小劇場まですべてほぼ満席であったのは、嬉しいことである。

 鈴木忠志率いるSCOTが、2010年代に入って毎年のように訪中公演を行っている。今年も、中国国家大劇院で6月6日から8日まで、SCOT『リア王』が3ステージ上演された。中国国家大劇院は天安門広場西、人民大会堂隣に2007年に開場した広大な国立劇場で、歌劇庁(オペラハウス)、音楽庁(コンサートホール)、戯劇場、小劇場の四つの上演空間を備えている。SCOT『リア王』は、国家大劇院国際戯劇季の開幕演目として、957席の戯劇場で上演された。私は鈴木忠志の良い観客では無いが、日本の演劇が中国でどのように受け止められるか関心があるので、7日に観劇した。ほぼ満席であったのは、先に記した通りである。

 

 SCOT『リア王』は1984年初演作品で、初演以来再演を重ね、世界各地で巡演されている。病院で一人死を待つ老人の回想と幻想の中で『リア王』の内容が舞台で展開されていく。鈴木忠志がSCOT公式HPで語っている上演意図によれば、「シェイクスピアの描いた作品『リア王』の中から、老人の孤独感とそれゆえに精神的な平衡、あるいは平静さを失う人間の弱さや、惨めさに焦点をあて、それは時代や民族の生活習慣を越えて普遍的な事実なのだということを強く主張しようとした」のだという。

 

 SCOT『リア王』は今回が中国初演ではなく、2010年代に入って何回か上演されている。今回は日・中・韓・英・露の五カ国語上演である。劇場では、中国語以外の台詞は字幕がついていた。

 

 上演が始まってまず驚いたのは、主役の老人を除いて、衣装が豪華なことであった。近年の舞台を観ていないせいか、私には、鈴木忠志=アングラ=貧乏という先入観がいまだに残っていたのだが、それを覆すに十分な衣装であった。

 

 俳優の演技は統一され、上演全体が一つの様式美を備えている。個々の俳優の立ち姿も美しい。SCOT『リア王』が一定の芸術水準を保ち、ある程度は見応えがあるのは事実だと思った。

 

 しかしながら、私はこの『リア王』になじむことができなかった。俳優は演出の傀儡のようで、俳優の自主性、主体性が感じられないのである。題名の通りこの作品はシェイクスピアの『リア王』に基づいておりその人物が登場するのだが、劇中人物の個性は感じられない。私は、このSCOT『リア王』の舞台から、様式美以外に「世界あるいは地球上は病院で、その中に人間は住んでいるのではないか」という演出意図がどれだけ観客に伝わったか、疑問に思った。鈴木メソッドは中国では評価が高く、中央戯劇学院でも学生をSCOTに学習派遣させているほどである。俳優の身体訓練としては有効性があるのかもしれないが、今回の舞台を観て、私にはSCOTの演技は平田オリザらが試みているロボット演劇が本格化すれば、真っ先に不要になる性質の演技だとすら思われた。観客の反応は、鈴木忠志が舞台に上がったカーテンコールを含めて、冷淡ではないが熱狂的とはとてもいえない。

 

 中国初演ではないせいか、新聞類の事前報道はかなり活発だったが、事後の劇評は少なく、それも紹介的なものだった。近年は中国でもネット上の感想サイトが活発化している。その中で影響力の大きい豆瓣同城では、25人が5点満点で評価し短評を付けている(注)が、5点評価は一人しかいない。なお字幕は演技とずれているなど問題が多い、という評が多いことは記しておきたい。

 

 これまでも、私はSCOTの舞台から否定的な印象を受けることが多かった。今回の北京での『リア王』も、それを覆すことがなかったのは残念なことであった。

■瀬戸宏(せと・ひろし) 摂南大学名誉教授、中国現代演劇研究・演劇評論

■『李尓王』

作:ウィリアム・シェイクスピア

演出:鈴木忠志

SCOT

中国国家大劇院(北京)

2019年6月6日~8日

注 :https://www.douban.com/location/drama/10863728//comments

 2019年7月1日最終閲覧。豆瓣同城・李爾王的短評は他の劇団の『リア王』上演評価も含んでいるが、25人という数字は今年のSCOT公演に限定したものである。

 

​写真:Nishi Jpk

 1957年に結成した京都を拠点とする劇団、人間座。現在は劇団としての活動の他にも京都市左京区下鴨の住宅街の中に小劇場「人間座スタジオ」を構え、若手からベテランまで多彩な演劇人の作品を上演している。田畑実戯曲賞は人間座の創立六十周年を記念して創設された戯曲賞であり、劇団発起人の一人である田畑実(1925年―1994年)の名前を冠している。2017年に第一回の募集が開始された。


 第一回田畑実戯曲賞の受賞作『ひたむきな星屑』は1993年生まれの若手演出家、柳生二千翔によるオリジナル作品である。柳生自身の演出で2017年11月に東京で初演が行われている。私が観たのは受賞を記念して人間座スタジオで催された再演であり、演出は同じく1993年生まれの河井朗(演劇カンパニー「ルサンチカ」主宰)が務めた。また人間座の現代表、菱井喜美子がクレーマーの女性役で出演している。インターネット上にある初演の写真等を見る限りでは柳生の初演を再現したわけではなく、河井が柳生の戯曲をみずから解釈して独自の演出を行った公演であるようだ。
 

 今回の上演にあたり、主催の人間座と公演の製作にあたったルサンチカは作品に対する劇評を公募した。河井朗によれば「上演されたその作品に対してどういった眼差しが向けられるのかを記録として残して」みることを目的とした試験的な公募であるという。しかし今回の公募は、単なるまなざしの記録に留まらず、演劇から受ける印象を言葉に残したい観客の足を劇場に運ばせる効果もあったように思う。京都の小劇場シーンに暗く、柳生や河井の活動についても何も知らなかった私が本作を観に行くきっかけになったのはツイッターで見かけた劇評募集のツイートだった。未知なる作品と観客を引き合わせ、新たなまなざしを創出する公募企画だったと言えよう。
 

 公演を観て、私は以下のような文章を書いた。

 

* * * * *

 

 ひっかかりの残る作品である。わかる部分よりも、曖昧なまま残された部分のほうが圧倒的に多い。まるで本作は、観客が内容を理解したことにして足早に通り過ぎていくことを許さないかのようである。だから観終わってしばらく時間を置いた今も、芝居のシーンが白昼夢のようにおぼろげに頭にまとわりつく。見慣れているつもりで見過ごしていた夜の街並みが、違った表情で目の前に立ち上がってくる。


 私は「ひっかかり」という言葉を使ったが、本作の内容に合わせるならば「ねばつき」と言い表したほうがより適切かもしれない。舞台の中央に大きな穴が開いている。劇中で陥没事故を起こす高速道路を模したセットである。土の色をした穴の内側は粘りけのある透明な液体で満たされ、化石、サーベルタイガーのおもちゃ、星砂の小瓶といった小道具が糸を垂らしながらそこから取り出される。この粘液の役割はさまざまだ。サービスエリアの従業員たちはまるでフードコートで出されるカレーの染みのようにエプロンを粘液で汚し、暴動の場面では粘液が血液に見立てられる。特に印象的なのは、二十年ぶりに朝日ヶ丘に戻ってきた主人公の青子に対して姪の加絵が現在の街の様子を説明するシーンである。舞台中央に宙づりにされたアスファルトの断片の上に粘液まみれの小道具が並べられており、加絵はそれらを街の建物のミニチュアのように手に取りながら語る。その様子は、あたかも街全体がねばっとした粘液に包まれていることを示唆するかのようである。


 高速道路を敷設したばかりの海のない街、朝日ヶ丘。と言っても、この街から高速道路に出入りできるわけではなく、朝日ヶ丘にはサービスエリアがあるのみだ。地元の人間に移動の契機をもたらすことのないこの高速道路は、ねばねばと糸を引く土地を急ごしらえの欠陥工事によって閉じ込めた単なるアスファルトである。腐敗を覆い隠すだけの開発を進めた朝日ヶ丘は逃げ場のない閉塞的な地方都市であり、一見都会化と社会的流動性を象徴し得るかに見える高速道路はホタテを入れただけのフードコートの目玉商品「湘南カレー」や海外の化石ばかりを陳列した化石博物館と同様、陳腐で表層的な虚飾に他ならない。舞台上の柱を蔦のように絞めつける赤い電飾で表現された渋滞中の自動車のランプや、青子の吸うタバコの煙が舞台上に厚く垂れ込めるさまは街の閉塞感や息苦しさを強調している。


 かつてこの街から逃げ出した青子にとって、現在の朝日ヶ丘は見知らぬ土地に変貌している。劇の冒頭、木々の影が背景に映し出され、虫のすだきが聞こえる夜のシーンで、青子を演じる渡辺綾子は自分の足もとを探るように登場し、一つ一つの言葉の感触を確かめるようにゆっくりと音節を区切りながらセリフを発する。そして後の場面においては、彼女はカフェに入ってきた加絵が自分の姪だと認識できず、かつての同級生でサービスエリアの主任である大沼が過剰な親しさで接してきたときには困惑の表情で応じる。久しぶりに帰った故郷やそこに住む人々は彼女に懐かしさを感じさせることはなく、よそよそしい他者であるかのようだ。それはサービスエリアを中心とする街の一帯が、マルク・オジェが「非―場所」という造語で言い表した、どこにでもあるどこでもない場所であることを意味する。共同体の営みがもたらす連帯感や場所への愛着はそこには存在せず、帰郷者の青子に限らず街の人々は皆、孤独と疎外感の中で生きている。


 このような街の息苦しさからの脱出を切望する加絵の思いは、海への憧憬という形をとって現れる。劇中のセリフで「群馬県」と直接言及されることはないものの、内陸に位置する朝日ヶ丘において海は、ここではないどこかの理想的な象徴となり得る。映画館のシーンで目まぐるしく切り替わる投影映像に映し出される波打ち際のショット、ロッド・スチュワートが帰郷の船路を自由の追求として歌い上げる挿入歌『Sailing』(1975年)など、海のモティーフは自由や開放感などを含意しながら繰り返し作中に登場する。加絵や青子の携帯電話にたびたび届く「櫻井翔」を名乗る迷惑メールもまた、街の外からの誘惑を体現する存在である。その中の一通で、櫻井翔はロケで訪れた沖縄の海の美しさについて語り、星砂をプレゼントとして贈りたいと伝える。本作の櫻井翔は、アーサー・ミラーの『セールスマンの死』(1949年)に登場する冒険家の兄の幻影のように、夢の実現を約束する幻だと言えるだろう。もちろん音声や舞台に投影されるテクストといった、実体のない曖昧な姿でしか登場しない櫻井翔が信用に値する存在であるという保証はどこにもない。


 主人公たちを外の世界へと誘う謎めいたメールに対する青子と加絵の反応は対照的である。青子は一通目が届いた時点で即座に「迷惑メール」と断定して無視を決め込むが、加絵はずっと櫻井翔と連絡を取り合っていたことが終盤で示される。メールの送り主は加絵にとって「会いたい人」となり、彼女が街を出るきっかけとなる。外の世界を知っている青子は「つまらないのは自分だって、ちゃんと分かったから。どこに行ったって」という諦めにも似た自己認識を既に得ているのに対し、加絵はまだ街の中しか知らず、外に希望があると信じているように見える。朝日ヶ丘からの加絵の逃走を判断力に欠ける若者の無謀な旅立ちと見るか、自分自身を理解するために不可欠な通過儀礼ととらえるかは観客しだいであろう。


 東京やメキシコから加絵は朝日ヶ丘に残った青子に手紙を書き送る。このラストシーンで注目すべきは加絵を演じる土肥希理子が舞台中央の穴に入り、両脚を粘液まみれにしながら手紙の言葉を発する点である。結婚して子どもができた一見幸福そうな家庭生活を淀みなく報告するセリフとは裏腹に、彼女の脚をとらえた粘液は自由を奪い、彼女を絡め取ろうとしているかのようにすら見える。旅の終着地で彼女を待ち受けていたのが朝日ヶ丘と同様のねばつく街でしかなかったと解釈することも不可能ではない。


 ここで演出の河井朗が柳生二千翔の戯曲の結末に対して異なる解釈を提示しようとしているのか、それとも柳生の戯曲にもともと込められていた両義性を強調しているのかは、にわかには判断しがたい。ただ確かなのは、この曖昧な結末は観客みずから答えを見つけることを要求しているということだ。雪の朝にもかかわらず一心に街の外を目指す加絵が旅立ちぎわに口にする「トラスト・ミー」という一言を信じて彼女の未来に希望を見出すか。あるいは、加絵もいつか青子と同じように、どこに行っても同じだと悟る日が来るのか。それとも――


 本作は決してわかりやすい正解を提示しない。ステージ上にぽっかりと開いた穴と同様、解釈と想像の場は常に観客に向けて開かれている。若い世代が中心となって生み出したこの劇もまた、作り手の未知数の可能性をうかがわせる開かれた作品である。

* * * * *

 劇評公募に対しては七名が名乗りを上げ、公演終了後に私を含めて五名が劇評を執筆した。それらは人間座のウェブサイトに掲載された PDFファイル で読むことが可能である。集まった劇評に目を通すと、同じ内容の公演ではあるものの反応の違いに驚かされる。それぞれの評者が異なる形で本作が持つ曖昧さに向き合い、河井の演出に対しても多様な受け止め方をしていた。そういう意味では、私たちはまったく異なる作品を観ていたのかもしれない。演劇は観客が不信を自発的に一時停止し、見えないものを想像力で補うことがより必要とされる芸術であるが、作品を観て解釈するという点においても観客は作品づくりに関わっている。言うなれば、個々の観客のまなざしによって作品は初めて完成するのである。


 「田畑実戯曲賞は可能な限り続きます。こちらもうすぼんやりした道筋です。可能な限りとはそういうことです。演劇とはうすぼんやりしているのです」と河井朗は語る。現在(2019年8月)の時点で人間座は第三回田畑実戯曲賞のエントリーを募集しているが、優れた戯曲に賞金を与えて上演まで行う気前の良い事業を小劇場がいつまで継続できるのかはわからない。また今後、人間座やルサンチカが劇評公募を続けられるかどうかも多分に不確定な要素をはらんでいる。しかし、たとえ薄明の中を手さぐりで進むような形ではあっても、進み続けることに意義があるだろう。異なる演出家の解釈によって作品が上演され、さらに複数の観客がそれぞれのまなざしを言葉にして発することで、戯曲は作者の思惑を離れて独自の道を歩み始める。それこそが作品をより豊かに育てる過程であるはずだ。

■『ひたむきな星屑』

柳生二千翔(女の子には内緒/青年団)作

河井朗(ルサンチカ)演出

人間座スタジオ(京都市)2019年5月23日~26日

http://ningenza.com/hitahoshi/

​写真:Nishi Jpk

■藤城孝輔(ふじき・こうすけ)

岡山理科大学教育講師/映画研究・映像翻訳

 

『スカイライト』

提供:新国立劇場

​撮影:細野晋司

「男と女のあいだには 深くて暗い 河がある」

 

 『黒の舟歌』(能吉利人作詞・桜井順作曲)が、頭の中で鳴っていた。聴き心地の良い加藤登紀子のものでも、長谷川きよしのものでもない、不器用で唸るような野坂昭如の歌唱のものだ。デイヴィッド・ヘアの『スカイライト』は、そんな歌のような男と女の情念の劇ではなく、個人の問題から描く一種の社会劇である。にもかかわらず、野坂の歌声が、登場人物のひとり、中年男トムのやるせなさに重なり、終演後思わず口ずさんでいた。

 

 初演は1995年。同年、ローレンス・オリヴィエ賞最優秀新作演劇賞を受賞。また、2015年には、トニー賞ベスト・リバイバル賞を受賞している。ミュージカル作品のリバイバルは近年多くあるが、こうした社会的問題を孕んだ対話劇が、古びることなく、初演から20年も経って再演され、評価を得るということは、数十年経った現在も、個人の意識差、それを取り巻く社会環境の問題点から、人も社会も解放されていないという証拠かもしれない。作品の舞台は、ロンドン郊外。イギリスの階級意識、経済、社会的諸問題を内包する価値観の違いは、対話すればするほど、男と女、トムとキラの間の「深くて暗い河」となって、テムズの両岸へとふたりの心を隔ててゆく。

 登場人物は3人のみ。ロンドン中心部から外れたエリアにある、暖房設備も十分でない質素なアパートに、キラは住んでいる。若い女性の部屋にしては、地味で味気ない。そこへ、突然青年エドワードが訪ねてくる。かつて不倫関係にあった男トムの息子である。母が死んでから、父の様子がおかしいから助けてやってくれとキラに頼みに来たのだった。エドワードと入れ違いに、そのトムが訪ねてくる。突然の再会。不倫が発覚して別れたふたりだが、まだ互いに思いは残り、心の決着がついていない。別れてからの3年の間に、キラとトムの間にできた隔たりが、揺れ動く気持ちと重ねられる会話によって、明らかになっていく。

 

 2人の出会いは、トムのレストランで、キラが学生アルバイトとして雇われたことに始まる。別れた後のキラは、安アパートに住み、貧困地域にある学校で教えている。トムはレストラン事業を拡大し成功したことを誇りとしている。再会に驚き、困惑し、再びのときめきさえ感じるふたりが、言葉を交わせば交わすほど、すれ違い、価値観の違いに苛立ちを覚え、対話から口論となっていく。

 

 父が弁護士で、自分も大学をでているキラ、レストランのオーナーとして成功しているトム、大学生で素直に育ち、リッツホテルから朝食をキラのために調達する息子エドワード。3人とも外見的には、中流階級層に属している。しかし、キラの目線は貧困地区の学校教育を通して、社会的、経済的に区分され取り残された階層社会へと向けられ、もはや階層区分の外側に生きている。一方、トムは経済的成功こそ達成すべきゴールだと考え、ステータスの枠組み内で生きている。3年間の間に生まれたふたりの価値観の違いは、互いに不信感を与えていく。共有するものは、不倫発覚後に亡くなったトムの妻への罪悪感だけである。

 

 再会による再びの対話が、相互理解を深め、空白の年月を埋め、ふたりの絆を確かめ、共有する罪悪感からふたりを解放し、現在の自己を肯定しうるものだと、キラとトム、あるいは観客も期待したかもしれない。しかし、実際は、会話を重ねれば重ねるほど、隔たってしまったふたりの価値観が、対話のテーブル上で醜く露呈されるばかりだった。

 

 行き過ぎた資本主義、サッチャー時代のネオリベラリズムは、イギリスにひとつの影を生んだ。その影、キラとトムが生きる社会の違いが、ふたりの会話の背後に見え隠れする。ヘアの作品は概して政治的であるが、ヘア自身、党派に属する政治の中のひとではない。政治の外から政治を描く。政治劇そのものでなくとも、時代に生きる人間を描くとき、あらゆる演劇は政治的になる。『スカイライト』も恋愛劇の形式ではあるが、政治的側面を持っている。男と女が、社会性をまとわない素っ裸の生きものであれば、もっと幸福になれたかもしれない。しかし、性別以前に、ひとりの独立した社会的生きものである限り、恋愛することは自ずと政治性を抱えることになるのだ。埋められるはずもないふたりの間の溝を埋めようとして会話し、そして絶望する。

 

「誰も渡れぬ 河なれど  エンヤコラ今夜も 舟を出す」

 

 目線のベクトルが下へ向かうキラ、即物的な見方で上しか見ないトム。まだ固まっていない柔らかな存在で、ふたりの間を浮遊する息子のエドワード。彼こそ、閉塞した社会を背負ったキラとトムの間の「深くて暗い河」にかかる橋なのかもしれない。テーブルを挟んで交わされる多くの言葉よりも、テーブルの上に並べられた温かい食事が、心をつなぐこともある。物語の終わり、エドワードが高級ホテルリッツの朝食を、キラのみすぼらしいアパートに運んできて、嬉しそうに食卓をセットする。安アパートの食卓に高級ホテルの料理。そんな不釣り合いに見える組み合わせ、人と人とを隔てる見えない階級意識の壁を、いとも軽々と乗り越え、行き来するエドワードに、作者デイヴィッド・ヘアが新しい世代に抱く未来への希望が見え隠れする。

■瀧尻浩士(たきじり・ひろし)

明治大学文学部演劇学科卒業、オハイオ大学大学院国際学修士課程修了。

大阪大学大学院文学研究科在学中。

■『スカイライト』

作 デイヴィッド・ヘア

翻訳 浦辺千鶴

演出 小川絵梨子

キラ・ホリス = 蒼井優

エドワード・サージャント = 葉山奨之

トム・サージャント = 浅野雅博

2018年12月27日

兵庫県立芸術文化センター 阪急 中ホール

 

東京公演(新国立劇場)の詳細は、

https://www.nntt. jac.go.jp/play/ skylight/

 

 日本が発祥の舞踏が、文化も歴史も異なる外国人にどのように受け取られ発展したのか、彼らが舞踏のどこに魅力を感じ、自分の表現を生み出していったのかを観てみたい。日本人のそれとは異なっていればいるほど、それはおそらく舞踏の本質のようなものを垣間見ることに繋がるのではないだろうか。そんな期待も持って何度か通っているstudio seedboxに向かった。

 開始時間を間違って13時30分と記憶していたため、15分前にチラシを確認して自分の間違いに気づいて急いだが、間に合わず最初の松本さんのものは、入り口のモニターに映し出されるのを見たに止まる。踊る順番はチラシの通りではなく受付に張られていたのだがメモしなかったのでどれがどの人か分らない人もいた。またすべての踊りが面白いわけではなく、かなり退屈に思えたものもあった。特に裸で後ろ向きに立ち、腕で工夫を凝らして形を描いているのだろうが、それが空疎に思える瞬間があるのは舞踏手の緊張した筋肉の動きの狙いというか方向が伝わらないときであろう。

 しかし、最後に踊ったというか微細の動きを続けた金亀伊織は片脚の先に鈴をつけ鳴らしながら他方の脚はつま先で立ち、腕は細かく筋肉を制御しておりある方向を目指しているのがこちらに伝わってきた。一つのミニマリスムを目指していたのであろう。

 この金亀の動きと、どちらかというと弛緩した空疎な動きに見えてしまう踊りを比べてみると観客に伝わってくる緊張とは、動こうとする肉体をそれに逆らい制御する舞踏手の意思が表現として観客に伝わったときに生まれるのだと思う。

 中国人の4人の若者(Butoh WhiteFOX staras)の踊りは、珍しくユーモアを目指していたが舞踏表現の多様性を垣間見たような気がした。身長も肉体的特徴も対照的な4人がそろって同じ動きをすることで逆にずれが生じそれがユーモアを生み出していたが、4人の動きが組み合わさって一つの大きな動きを構築するようなものもできた筈なのにと思ってしまった。

 

【肉体と衣装】

 一組を除きソロで踊る公演が続いたためもあり、舞踏とは身体というより肉体の生々しさをより際立たせるものなのだと思いあたる。胸から腹にかけての皺、たるみ、それらはおしろいをぬっているだけに逆に目立つ。逆に本当に舞踏家なのだろうかと思わせるほどふくらんだ腹をしており普段鍛えているとは思えない人も一人いた。ほぼ制止した状態から肉体を部分的に動かし、身体を分節化していくため筋肉の張りと緩みを否応なしに観察することになる。関典子のワンピースからむき出した両脚の脛の張った筋肉が強い表現として目に焼き付く。

 思ったのは、日常においてこれほど他人の肉体そのもの、特に裸体に近いそれを見つめることを許される機会はまれだということだ。コンテンポラリーダンスの場合は動きの方に気を取られるし、ダンサーも服装で身を覆う時の方が殆どだ。

 ふと客席を見渡すと、コンテンポラリーダンスの観客のように若い10代20代は殆どいなくて中高年の方が殆どで、一瞬だが客席にいる人たちの裸体も想像した。実際に彼らの裸体を見る機会はないが、舞台上の舞踏手と同じように時の経過をそれぞれの肉体に刻んでいることだろうと想像させられるのも舞台上の肉体を見つめていたからだろう。

 そうした肉体とその動きだけで、音楽がなかったらどこまで見るに耐えられるだろうかと思うほどそれぞれの作品で使われていた音楽は重要な役割を果たしており、裸の肉体に纏う衣装のように効果的であった。

 その中で衣装そのものに特別な工夫を凝らしたのが二人いた。そのうちのJuan Antonio Suinagaは大きな布の衣装を草木で覆い、腕にも草花をつけ、全身植物の精が変身したかのような踊りだった。最後にはその衣装を脱ぐことで自らの生の肉体との対比を際立たせていた。つまり裸になり白塗りをすれば舞踏になるというステレオタイプから自由になっているように感じた。

 それをさらに推し進めれば、別に裸にならなくて完全に衣装で身を包んでも肉体を感じさせれば舞踏になるという考えになり、INAKI OYRVIDE(発音分らず)の踊りはそうした考えのもとに実現しているように思えた。彼は礼服のような黒いスーツに身を包みマーラーの交響曲第5番「アダージョ」に合わせて手先の微妙な動きと顔の表情の変化で大部分の時間と空間を満たしたが、大きな変化があったのは上着の片側を脱ぐとそれをあたかも人であるかのように相手に踊り始めた。それにより他の時間の手先と顔の表情の変化が、自らの過去を回想してのものだと観客に想像させた。舞台上の現在の時間が観客の想像力を借り、物語的時間へと変貌した瞬間だと思われる。そのせいかその日みた作品の中では一番客席からの拍手が大きかった。

 この日の公演を観て最初に抱いた疑問は氷解しただろうか。ともにこれこそ自分にとっての「舞踏」だと思って踊ったそれぞれの作品を通して、外国人のそれと日本人のそれを比較することで舞踏の本質が見えてきたのだろうかと自問すると、まだだと思わざるをえない。

 しかし分ったのは、金亀の踊りに代表される、ひたすら制御することで生身の肉体そのものを見せようとする傾向と、それとは逆に全面的に衣装で身を覆うことで、観客を物語的時間へと誘うINAKI OYRVIDEの踊りの傾向は舞踏に止まらず、コンテンポラリーダンス一般に当てはまる傾向でもあり、今回の舞踏公演はその二つの傾向をより際立たせていたのではないかと思われる。

 3時間余りの複数の舞踏手による公演を観て思ったのは、ダンス一般がそうかもしれないが、特に舞踏は、見ていて身体が解放され軽やかな気になるというより、一瞬一瞬、舞踏手の肉体を意識することによりそれを見ている自らの肉体と生そのものを覚醒させるものだということだった。

Butoh WhiteFOX staras 白狐系星組/主宰 杜昱枋/DUYufang

​写真:山下一夫

■2019年5月4日。studio seedboxにて13時の回を観劇

金亀伊織

写真:海野隆

■番場 寛(ばんば・ひろし)

大谷大学名誉教授。専門フランス文学・精神分析理論研究。

 

 「おおさかのてっぺん」大阪府最北端にある能勢町には、素浄瑠璃が残っており、その歴史は200年以上ある。素浄瑠璃とは、太夫と三味線だけで浄瑠璃を語るもので、能勢町のものは「おやじ制度」という独特の制度により、長く伝えられてきた。そのような能勢の浄瑠璃を地域の財産として守っていくとともに、未来へつなげ発展させることを考え、平成10(1998)年には人形と囃子を加えることになった。ここに日本で一番新しい、人形浄瑠璃・「能勢人形浄瑠璃」が誕生した。初演時には、人形首(かしら)、人形衣裳、舞台美術、演目(『能勢三番叟』、『名月乗桂木』)の全てが能勢オリジナルという気合いの入ったものであった。平成18(2006)年10月には、名称を能勢人形浄瑠璃「鹿角座(ろっかくざ)」と新たにし、劇団を旗揚げした。鹿角座には、様々な年齢、職種の方が参加し、太夫、三味線、人形遣い、囃子、の四業を担っている。「こども浄瑠璃」も設けており、四業それぞれについて、こどもたちも研修を積んでいる。

 さて、そのような能勢人形浄瑠璃鹿角座は、毎年6月を「淨るり月間」として、毎年6月末の土日に定期公演を行っている。2019年は、令和最初の「淨るり月間」として、令和元(2019)年6月22日(土)、23日(日)に開催された(両日とも13時30分開場、午後14時00分開演)。

 公演では、開場を知らせる「一番太鼓」が13時20分に鳴った。そのすぐ後に、ロビーにおいて、能勢のPRキャラクターである、「お浄」と「るりりん」が人形で登場し、3人遣いでのゲリラ公演があった。開場前の催しということで、大勢の方が鑑賞していた。

 令和元年の公演は、『仮名手本忠臣蔵』、『日高川入相花王』、『壺坂観音霊験記』の3演目が用意されていた。鹿角座には、オリジナルの演目が4つ(『能勢三番叟』、『名月乗桂木』、『閃光はなび〜刻の向こうがわ〜』、『風神雷神』)あるが、いずれも古典の演目による上演となった。

 『仮名手本忠臣蔵』からは「裏門の段」が上演された。あらすじは、塩谷判官の家来・早野勘平がお軽との逢瀬の間に主人の大事が起こったため、切腹しようとするが、お軽の頼みにより、二人で山崎へ逃れるというものである。勘平とお軽の会話も聴きどころだが、勘平を捕らえにやってくる鷺坂伴内の家来と勘平との立ち回りもみどころといえる。鹿角座の人形の衣装は、ほぼ全てが洋服生地で作られているが、公演パンフレットによると、お軽の着物はオフィスガールをイメージして作られているようだ。新しく人形からつくった能勢人形浄瑠璃ならではの仕掛けといえるだろう。

 

 続いては、『日高川入相花王』より「渡し場の段」である。紀州の豪族の娘清姫は、都見物の時に出会った安珍という僧に恋心を抱いている。実は安珍は天皇の弟で皇位継承の問題により命を狙われる身で、おだ巻き姫という許嫁もおり、二人は追っ手から逃れようと、紀州・和歌山県の道成寺へと逃げる。安珍を諦められない清姫は同じく道成寺へと向かうが、日高川にて船頭にとめられ、川を渡れない。何とか追いつこうと、清姫は自身を蛇に変えて川を渡りきるというもの。ここでのみどころは、やはり有名な場面ではあるが、川を渡ろうとする清姫の姿であろう。清姫の人形の首(かしら)には「ガブ」という特殊な仕掛けをしており、頭から角が生え、口は大きく開き、牙も生えるというもの。これにより狂ってしまった清姫を表している。能勢の場合では、開いた口の中が青くなっており、恐ろしさを強調している。清姫の衣装の生地はサリー生地を使っており、ここにもこだわりがみえる。また、最後の川を渡る場面では、5名の三味線が登場し、大合奏となるところは聴きものである。

 休憩を挟んで最後の演目は『壺坂観音霊験記』「沢市内より山の段」である。これは、盲目の沢市と、妻のお里の話である。夜明け頃に外にでかけるお里を不審に思う沢市が尋ねてみると、お里は沢市の目が治るようにと3年間毎日壷坂寺へ参っていたと話す。それを聞いた沢市は一緒に寺へ出かけるが、本当に目が治ると思えず、このままではお里に迷惑がかかると、お里を一旦家に帰し、自身は崖から身を投げてしまう。戻ったお里は沢市の姿が見えず、必死に探すが、崖の下に沢市を見つけてしまい、後を追い、崖から身を投げる。谷底には、観音様が現れ、これまでのお里の信心を褒め、二人を生き返らせる。生き返った二人は、沢市の目が治っていることに気づき、喜び舞うところで終わる。古典とはいえども、前半の2演目と違い、明治時代に入ってからの話であるためか、ハッピーエンドで終わるところが大きな特徴といえるだろう。また、創作された時点で人形浄瑠璃そのものが歴史を持っているためか、舞台における様々な技術のみせどころが多いように思える。そのひとつが、お里のしぐさではないだろうか。洗濯をした着物を砧で叩く様子や、糸を針に通すところから抜い終わるまでの針仕事、沢市との会話で涙する際に悔しくて手拭いを加える仕草など、様々なわざを披露できるようになっている。この日の上演でも、針仕事を終えたお里には、会場から感嘆のため息や、拍手が送られていた。その他にも、沢市の家から壺坂の山、谷底へと何度も舞台転換を行うが、それを瞬時に出来るような仕組みが凝っている。能勢の「壷坂」でも、舞台転換の迫力に目を奪われるものであった。

 令和最初の淨るり月間で上演されたこの3演目は全て古典のものであったが、これらは全て男女の恋物語をテーマにした演目ばかりであった。淨るり月間では、ロビーの広場にて、能勢の名産を販売する物産展や、能勢PRキャラクター(お浄とるりりん)や鹿角座のグッズを販売するなど、様々な試みが行われているが、1日の演目に一貫したテーマをもたせて上演することも、そういった試みのひとつであったように思われる。上記以外にも、劇場上部に字幕を設け、観客に太夫の語りをわかりやすくしたり、上演前には紙芝居方式であらすじを紹介したり(チラシやパンフレットも紙芝居を示唆するつくりであった)、終演後には人形が観客を見送ったり、写真撮影に協力したりなどの工夫が見られた。そういった活動から、この劇場(淨るりシアター)を使って、何ができるのか、来場者をいかに楽しませるかということに腐心している様子が窺えた。人形浄瑠璃を上演する、古典を題材にするといったことは前提としてあるが、それ以上に、上演においてどのような工夫が人を魅きつけるか、ということに尽力しているのであろう。その積み重ねこそが、能勢人形浄瑠璃へ興味を持たせ、継続したファン獲得につながっていると思われる。

 能勢町には、素浄瑠璃の伝統があるためか、浄瑠璃を習う人の割合は人口に比べて多い。しかし、少子高齢化が進む中で、人形浄瑠璃鹿角座のメンバーが限られてきているのも事実である。鹿角座は、記念式典での舞や、人形浄瑠璃の解説や、太夫、三味線、人形、囃子の体験ワークショップ、イベントへの出演など、上演以外にも様々なかたちで活動を行っている。2019年7月30日(火)18時30分からは、大阪大学豊中キャンパスでの野外公演(まちかね ta 公演 at 大阪大学)も予定している。このような様々な活動を続けていくためにも、まずは能勢人形浄瑠璃を知ってもらい、観てもらい、体験してもらうことが重要ではないかと思う。こども浄瑠璃出身者でも、進学・就職の後にも町外から参加する人もいるという。これからも多くの人を巻き込み、劇場(淨るりシアター)からの仕掛けや、能勢人形浄瑠璃だからできることで観客を楽しませながら、活動を続けてほしいと期待している。

 

(写真提供:淨るりシアター)

​■山﨑達哉(やまざき・たつや)

大阪大学大学院文学研究科
アート・プラクシス人材育成プログラム事務局

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